栄枯盛衰、JR呉線をスケッチする。

 

 2025年も早いもので、残り一か月を残すのみとなりましたね。今年のトピックは何か、と問われて一番に出てくるのは、やはり大阪・関西万博の開催でしょうか。XにしろInstagramにしろ、会場の写真を見ない日はありませんでしたし、関西在住の知人も、その多くが一度は参加したようです。アミューズメントパークのように楽しむ人、スタンプラリーに勤しむ人、パビリオン毎に本気のインタビューを敢行する人、コスプレで炎上する人(笑)、老いも若きも男も女もインバウンド観光客も… 賛否こそあれど、停滞と鬱屈を繰り返す令和の空気感を吹き飛ばす大祭典であったことは間違いないでしょう。

 とはいえ、(元)大阪府民の私としては、カーテンコールのその先が気になる所です。大屋根リングの保存に、今回得た280億円の剰余金の使途、そして何よりIR誘致。大阪の「アフター万博」の展開に、注目していきたいですね。


 そんな関西万博がまだ“気付かれて”おらず、それなりの混雑で楽しめていた初夏の時期、私は大阪を離れ、瀬戸内に住んでおりました。呉という町です。軍港として開かれ、戦後は造船・鉄鋼など重厚長大型産業が勃興し、現在は人口減少に喘ぐ…そんなざっくりとした教科書的な認識しかない町でしたが、実際に住んでみると面白かったです。普通のスーパーで販売している聞いたことのない鮮魚、おばあちゃんが営む細長いお好み焼き屋、地元民の集う屋台。どれもこれも美味しくて…。あれ、ご飯の話しかしていない…?まあなんにせよ、楽しい呉生活でありました。このサイトでも時々、呉時代の写真を掲載していきたいと思いますので、どうかお付き合いください。

 今回はJR呉線、国道と併走しながら安芸灘の東側を縫うように走る呉駅以西の区間を取り上げます。それでは、よろしくお願いします。

 呉市の玄関口、JR呉駅です。現在の駅舎は1981年築の4代目。「クレスト」という商業施設が入居しており、終日それなりの賑わいを見せています。国鉄の駅舎では定番の箱型を基調としつつも、ガラス張りのアーチ部が良いアクセントになっています。駅前にはバスターミナルがあり、広電バス・JR西日本バスが乗り入れます。また、駅南側には呉港があり、江田島や松山とを結ぶフェリーが発着しています。

 呉自体は三方を山に、もう一方を海に囲まれた狭小な市街地ですが、バス、フェリー、そして広島空港行きのリムジンバスを通して飛行機と様々な交通網が結節する、瀬戸内の玄関口としての一面もあります。それを踏まえると、この駅の佇まいは質素であると感じてしまいます。実際、呉駅周辺部は再開発の計画がありまして、「当地域を起点として周辺の豊富な観光資源,更には芸予諸島・瀬戸内海へつながるゲートウェイとなり得る立地特性を有して」いるという認識のもと、「駅前広場の整備」「橋上駅舎化」「駅北側と南側を結ぶデッキの建設」「港と駅を結ぶ次世代モビリティの導入」などを図るそうです。

画像引用:呉市HP https://www.city.kure.lg.jp/soshiki/90/forum2024.html

 きっと数年後、呉という街が持つポテンシャルを発揮させられるような、立派な駅へと変貌を遂げているのでしょう。今後が楽しみです。

 呉駅を出て、二河川を渡るとすぐ「両城トンネル」にさしかかります。列車が行き交う隧道の隣には、怪しげに口を開けるもう一つの坑口が。坑門はレンガ積みとなっており、いかにも古そう。

 以上の説明だけでピンと来る方もいらっしゃるでしょうが、このトンネルは呉線開業時から使用されていた、いわゆる「旧線トンネル」です。1970年の呉線電化の折、隣の新トンネルに切り替えられました。これだけではオーソドックスな工事のように受け止められるかもしれませんが、実のところ、ただの新線切替ではありませんでした。


 1890年、海軍鎮守府の設置を端緒とする「軍港都市・呉」の発展は、鉄道建設の機運を高め、1903年の海田市~呉間開業という形で結実します。当時の鉄道はスピードと輸送力の総合力をもって「陸(おか)の最強輸送機関」としての立場を確立しつつあり、地元の方々の鉄道建設に対する思いは並々ならぬものだったでしょう。その後も順調に発展していった呉市は、1943年に人口40万人に到達するなど、全国でも有数の都市へと成長しました。当然、都市発展のカンフル剤たる交通機関の改良にも目が向けられ、1941年に呉線(海田市~呉間)の複線化工事が開始。全長20kmのうち75%にあたる15km分の路盤と、「“新”両城トンネル」を含む9つのトンネルが建設されましたが、戦局の悪化等の理由により、工事は中断されました。

(余談ですが、原爆投下前後の呉での暮らしを描いた漫画「この世界の片隅に(作.こうの史代)」において、主人公のすずさんが呉へ嫁いだ際に乗車した列車は、当然ながら旧線を通っていました。)

  戦後、C62型蒸気機関車の活躍の地としてマニアから注目されたこともあった呉線ですが、山陽本線の電化を受け、1970年にとうとう電化されます。ここで問題となるのはトンネル内における架線の設置ですが、先代より幅広の断面形状で建設していた新隧道に白羽の矢が立ち、二十数年の時を経て転用されることとなりました。その後も複線化の協議は進められたものの、費用対効果を勘案すると交換駅の増設に留めるのが妥当、という判断が下され、現在に至ります。

 やがて、日本の重厚長大型産業の衰退をなぞるように、呉市も活気を失っていきました。少子高齢化に加え、日鉄呉(旧日新製鋼)の撤退や三菱重工の縮小などにより、生産年齢人口をごっそり失った現在の呉市の人口は約19万8千人(2025年9月時点)。とうとう中核市の要件のひとつである「人口20万人以上」を下回ってしまいました。県内で比較すると、今年になって東広島市に抜かれ、4位に後退。そのような状況下において、呉線の複線化は残念ながら望むべくもないでしょう。そう思うと、この草生したトンネルに、坑口の大きさ以上の哀愁を感じずにはいられません。


 川原石駅付近は細い路地が多く、散策していると猫のような気持ちになります。うろうろしていると、呉港を俯瞰できる場所をみつけました。

 川原石駅~吉浦駅間の某所にある、パッと見ただけでは用途不明の設備。実はこれ、の遺構なんです。さきほど長々と解説してしまったので今回は簡単に触れますと、呉線のこの区間は高台を走行するため、乗客は呉港を眺め放題でした。軍港である呉港は当然、国家機密のかたまり。そんな訳で、港を簡単に伺えないように様々な工夫がなされるのですが、その一つが目隠し塀の設置というものでした。そして、塀を支える土台となったのが、何を隠そうこのコンクリート構築物なのです。先述した「この世界の片隅に」においても、客車の鎧戸を閉めるシーンと並んでこの目隠し塀が登場しますので、覚えがある方もいらっしゃるかもしれません。

 それにしても、建設からかれこれ90年が経過して、なおこれほど綺麗な姿を保っているのは奇跡じゃなかろうか。 夏場は草ボーボーらしいので、遺構を是非生で見たいという方は秋~春に訪れることを推奨します。

 快速停車駅の吉浦を過ぎ、かるが浜を越えると、西側には広島湾が広がります。呉線でも屈指の風光明媚な区間です。この景観が広島通勤圏に含まれているというのですから、何とも贅沢な話。

 「瀬戸は~♪ 日暮れて~♪ ゆうな~みこ~な~み~♪」と歌が聞こえてきそうな、穏やかな波打ち際に佇んで一枚。夜勤前のいいリフレッシュになりました。

狭いホームの天応駅。跨線橋からは海を望むことが出来ます。普通列車しか止まらない小さな駅で、隣を走る国道31号線の交通量とは対照的に、のんびりとした時が流れています。

 天応駅の玄関は、1903年の開業当時から使用されている木造駅舎です。無造作に駐められている自転車や原付が、かえって現役の駅舎としての趣を感じさせてくれます。

 こざっぱりとした建屋内を、近隣の子どもたちの可愛らしいイラストが彩ります。

ちょうどサツキが咲く季節でした。穏やかな初夏の瀬戸内。

天応駅の北側の旧線跡は、9つあるトンネル遺構の中でも比較的(というか圧倒的に)見易い場所にあります。トンネルの内部は物置として利用されているようでした。


 すみません、少し中途半端ですが以上が探索のあらましとなります。呉ポートピア駅以北は体力切れにつき、後回しにしてしまって、そのまま探索できずじまいなんです…。いつかリベンジを果たしたいところですが、さて、いつの日になることやら?

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